天才の条件

明確な根拠はないのだが、超絶優秀な人って、幼いころは周囲と異なる特徴的な子供だった傾向がある気がしている。

子供のころ学校の勉強についていけなかったトーマス・エジソンや、そこそこ大きくなってもおねしょをしていた坂本龍馬の逸話は有名だが、つい最近、私の身近にいる天才肌の人から、このエジソン坂本龍馬を足したような子供時代を送っていたという話を聞き、私の中で「天才は子供の頃変わってた説」が急速に流行りはじめた。

お前それ、n=3 (事例=3つ)で言ってんのかよ、と突っ込む人にはこう答えたい。

ええ、そうです。

 

私という人間は卑しいので、こういった仮説を信じ始めたらまず、自分の中の“天才”の可能性を探りたくなる。このうだつのあがらない人生、もはや藁にもすがる思いである。

冷静に考えれば、30過ぎてまだ水面に影すら見えてこない天才ポテンシャルなど、潜在にもほどがあるってものだが。

 

とにもかくにも、知人(天才)の子供時代の話を聞いた私はとっさに記憶を探った。自分の子供時代にも、人と違うところはなかったか、と。

すると、たったひとつだけ思い当たることがあった。

童謡「森のくまさん」の歌詞の解釈だ。

 

森のくまさんの2番の歌詞『くまさんの言うことにゃ お嬢さんお逃げなさい』

皆さんはこの部分をどのように解釈しているだろうか?

『くまさんは、“お嬢さんお逃げなさい”と言いました(意訳)』と理解しているだろうか?

どうやらそれが普通らしい。だからこの歌は、「逃げろと言ったくまさんが、後に追いかけてくる矛盾」について時に議論になるらしい。そりゃたしかに、コナンでなくても妙である。

 

しかし私は、4歳くらいで初めてこの歌を歌ってから30歳を過ぎるまでずっと、全く異なる解釈をしていた。

『くまさんの言うことにゃ お嬢さんお逃げなさい』というのは、くまさんでもお嬢さんでもない第三者の男性が突如登場して放った言葉で、「お嬢さん、(危険だから)くまさんの言うことからは逃げなさい」と、お嬢さんにアドバイスしていると思っていたのだ。

お嬢さんはこの一瞬だけ登場する男のアドバイスを受けて、くまさんの言うことを信じちゃならんと逃げる。しかしくまさんは実は落とし物を拾ってくれた良いくまさんだった。

という、『泣いた赤鬼』ばりの、くまと人間のせつないすれ違いストーリーだと思っていたのだ。

 

30年弱の間、この解釈を一度も疑ったことはなかった。

しかしある日、誰かと誰かが、前述した「くまさんの態度矛盾説」について議論しているのを聞いて初めて、自分の解釈がマイノリティ(というか私だけ)であることを知った。

 

これまで、私の解釈に賛同してくれた者はひとりも居ない。

大抵「くまさんの言うことにゃ」という日本語がなぜ「くまさんの言うことからは」という意訳になり得るのか、と問い詰められる。

そんなこと問われても、「にゃ」には無限の可能性が秘められているとしか答えようがないし、私はどちらかというと「にゃ」の可能性を信じる側の人間だったとしか言えない。

 

私は「にゃ」に無限の想像を巡らせる、周囲の誰とも異なる子どもだった。

きっと、天才に違いない